リレーエッセー




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1週間の1名のリレーエッセー。順番は以下の通りです。

野村→伊藤→長谷川→荒川→光冨→杉本→和合→森川→野村(以下繰り返し)

*杉本真維子さんは事情によりしばらくの間、執筆はお休みとなります。
 ご了承ください。杉本さんお疲れ様でした、またご都合がつけばお戻りください。
 新しい順番は次のようになります。よろしくお願いします。
野村→伊藤→長谷川→荒川→光冨→和合→森川→野村(以下繰り返し)

第35回 リレーエッセー

詩と詩人についてのメモ5 光冨いくや


 宮沢賢治の詩についてふれてみたい。

「永訣の朝」から。

「けふのうちに
 とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
 みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゆとてちてけんじや)」

 病床の妹は、兄に「あめゆきをとってきてください」とそう頼む。その妹はもう長くは生きられない。今日にでも遠くへと行って(逝って)しまうだろう。
 両の手に欠けたお椀をもって、兄は妹のためにあめゆき(みぞれ)のなかに飛び出す。
「ああとし子
 死ぬといふいまごろになつて
 わたくしをいつしやうあかるくするために
 こんなさつぱりとした雪のひとわんを
 おまへはわたくしにたのんだのだ」

 語り手の兄は賢治で、妹は実の妹のトシであろう。「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」という一文は、賢治やトシに限ったことではないかもしれない。わたしたちは、恵まれたひとや環境や時期をのぞいて、ある時期に心の底から、そう思うこともあるからだ。

 この詩のラストはこう締めくくられる。
「おまへがたべるこのふたわんのゆきに
 わたくしはいまこころからいのる
 どうかこれが天上のアイスクリームになつて
 おまへとみんなとに聖(きよ)い資糧をもたらすやうに
 わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」
  この詩作品は、最愛の存在に対する祈りである。ひらがなの多用と方言に、美しさと肌触り・体温を感じる。

 ほかに「無声慟哭」の死にゆく妹に問われた兄の言葉と詩行の美しさ、そして心に突き刺さる痛みとすべての罪と存在を包みこむかのような優しさ・愛情に、わたしはこころ打たれる。

「  ((それでもからだくさえがべ?))
   ((うんにゃ いつかう))
 ほんたうにそんなことはない
 かへつてここはなつめのはらの
 ちいさな白い花の匂でいつぱいだから
 ただわたくしはそれをいま言へないのだ
     (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
 わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
 わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
 ああそんなに
 かなしく眼をそらしてはいけない」

 修羅を歩く兄は、同時に臨終の際にいる妹を看取らないといけない、その声を出すことさえままならぬ慟哭。「永訣の朝」から察すると、天からはアイスクリームのような雪が、ふたりのいる地上に降りそそいでいるのだろう。わたしたちは、その兄妹のさいはひを祈らずにはいられない。

参考資料:「日本の詩歌18 宮沢賢治」(中央文庫)

2011.5.17掲載

第34回 リレーエッセー

リレーエッセイ5  荒川純子


 いつも自分に何かがあると言葉にしている。嬉しいことも楽しいことも、言葉にして残しておくことは詩の一葉一葉をためるようで、悲しいことは言葉にすれば忘れることができたし、つらいことは言葉から詩に変化させ乗り越えてきた。私の詩はマイナスから生まれたものがほとんどだ。
 この数年、私は「母」としての社会を優先し、自分をそれ以外の世間から切り離していた。家族のために生きることを選んだからだ。でもそれはどこか重荷で、自ら決めたことなのに心の片隅では逃れることを考えていて、そんな矛盾する気持ちを誰にも言えることはなかった。そんな時、自分に冷静さを取り戻させてくれて気持ちを抑える手段が言葉であり詩作であった。
 しかし、3月11日より私は言葉を残すことができなくなった。この日から数日、ニュースや新聞には家族を失った人、家族と離れなくてはならなくなった人、家族を探し続ける人の姿があった。もし私だったら、と自分勝手な想像に不安と恐怖を抱いたことも事実だ。そして私の今までの言葉や詩は何だろうと思い、私の書いてきたものはなんとあまいものだったろうと考え始め何も書けなくなった。ほんのひと言でさえ、文字にすることをためらった。私が書いてきた家族とは私に一番大切なもので、何事にも奮起させてくれる唯一の人たちなのに、私はそれを持っているのに、私は何を書いて何を思ってきたのだろうか、複雑なこの気持ちは表現するのが難しい。
 そんな時、友人のひとりが「自分の生活を一番に」といった話をしてくれた。彼女は私が詩人だとは知らないし、悩んでいた私を気遣った訳ではなく保護者同士の世間話として「ワイドショーで“家でニュースばかり観ていると情報に囚われて本当の生活や自分を見失ってしまう人が多いから気をつけて”と自分をまず第一に考えなくては、とコメントしていたよ」というものだったが、その言葉が日を追うごとに私を日常へ戻してくれていった。私は勇気をだしてテレビのスイッチを消した。
 3月11日より前に私の書いてきたものは私が感じた真実だ、だからそのことで悩むことをやめた。だが、これから書くものに影響が必ずしもないとは言えないし私はまだ新しい言葉を残していない。残せていないのは言葉が依然よりかなり重みを増したからだ。どう言葉を取り戻したらよいのか私はまだ模索しているが、言葉は必ず私を、みんなを奮い立たせるだろう。

2011.5.10掲載

第33回 リレーエッセー

震災の後に 長谷川 忍


 先週末、詩の月例合評研究会があった。20編の作品が揃った。そのうちの半分近くが、何らかの形で東日本大震災を題材にした作品だった。
 震災が起こって後、現代詩の世界でもさまざまな動きが見られたようだ。詩人として今回の震災をどう捉えるか。詩人として何が出来るのだろう。私も、今回の震災を題材に1編詩作品を書きかけた。でも途中で筆が止まってしまった。何を書いても、結局は偽善に過ぎないのではないかという思いが湧き上がってきたのだ。私自身は、震災で家を失ってしまったわけではないし、原発事故で直接の被害を被ったわけでもない。ましてや被災地を目の当たりにしたわけでもない。そんな輩がどんな言葉を綴ったところで、所詮は嘘っぱちではないのか。
 研究会の席で、講師のお一方がこんな話をされていた。
「震災からまだ1ヶ月半しか経っていないのに、震災前のことがもう随分昔のような気がしてくる。それくらい、震災前と震災後では書き手の言葉に対する意識が否応なく変わってきている」
 今回の研究会作品の中で私が気持ちを動かされたのは、作者の体感的な部分で震災を捉えた作品だった。いわゆる応援歌的なものではなく(応援歌ももちろん大切だが)、もっと身体の奥深く、内省的な部分から発したものと言ったらいいだろうか。被災した、被災しない、に関わらず、身体の、痛みの部分から発した言葉。もうどうしようもない部分での言葉。言葉というのは、体感と切り離しては考えられないのだな、と幾人かの作品に触れ実感した次第だ。そして、痛みに寄り添う、という意味でも。
 今回の震災で、もし私が被災者の方たちに少しでも届けられる言葉があるとすれば、そういう部分から発するしか手立てがないのかもしれない。
 それにしても、この1ヶ月半、社会というものが実によく見えた。社会と書くと高尚に聞こえるが、要は、人と人とのしがらみだ。こういう事態に陥った時、どんな行動をとるか、どんな発言をするか、批判するのか、支援するのか、懐に入るのか、逃げるのか、高みの見物か、傍観者か、ピエロか、いらぬお節介か・・・? そういう私だって、自分のことを棚に上げてしまっているという自戒の念にかられている。
 書きかけの震災詩は、何とか完成させようと思っている。ただ、最終的に、偽善という迷いからは抜け出せないという諦めもある。それを根底に置きどのように書いていくかだろう。「言葉」というのは、つくづく難しく、難儀な代物だ。

2011.5.1掲載

第32回 リレーエッセー

歌うように詩をくちずさむ(5) 伊藤浩子


*まずは今回の東日本大震災におきまして被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。



「右足の裏側でね、その金魚がピクッ、ピクピクッって痙攣しているのが分かったの。それはじかにね、響いてくるのよ、そのとき、あたしにとっては、右足の裏側は地球の裏側のように遠かったんだけど、その遠い場所から、ピクッピクッってね、あたしは、カーペットから右足を剥がし、長い間、見つめていたの。金魚じゃなくて、そこに転がっている境界線を。

 リビングで母親がパーティに出かける支度をしている。唇にリップグロスを塗っている。母は真っ赤なグロスが好きなのだ。

 それから黒いイブニング・ドレス、金色のファー。ぜんぜん似合ってない。

 いたずらで、あたしはグロスを指にこぼしたことを思い出す。足の裏の境界線はその感触にそっくりだ。

 冷たくてねっとりしていて、まっすぐ上にのぼってきて、頬が熱くなるのが自分でも分かった。リビングの母親に叫ぶ。

『お母さん、どうにかして!』

 言葉ではなく、足の裏の感触で、子どものあたしは境界線を理解しようとしていた。でも、そのときは、理解なんて思わなかったな、それは理解なんかよりももっとずっとずっと遠いところからやってきて、あたしを上から下までそっくり入れ替えようとしていた、変わっていくあの感じがいまでも忘れられない。それからすぐにあたしは初潮を迎えたの」



 私は夢から目を覚ますと、ほとんど何もなくなったリビングに向かい、水槽から一匹だけ残した金魚を手ですくい上げ、床に落とす。ストッキングを脱いだ右足で何度も何度もそれを踏み潰す。私自身の夢だと思って。

 私はいつの間にか、母親のイブニング・ドレスを着て、リップグロスを唇に塗っている。母親は、泣いていたのかもしれない、何にでもすぐに泣く母親だったから。

 でも、私は泣かない。

 もう一度、足を踏みつける。その床のもっと下方、暗くて冷たい地底の、底の底の方から、私に、何かを伝えにやってくるものがある。

 私は携帯電話を捜し求める。

 ここはどこだっけ?

 そこはね、境界線を失った、真っ暗で、とてもとても清潔な場所。

2011.4.11掲載

第31回 リレーエッセー

経験と痙攣 野村喜和夫


詩は経験である、といったのはリルケであるが、実のところどのような文脈で言われたのか、言葉だけが一人歩きししているような気もする、それはアドルノの例の「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である」という言葉にもいえることであって、われわれは軽々しくこういう言葉を引くべきではないが、しかし引いてしまったのだからしかたない、詩は経験である、あるいは痙攣であるかもしれない、私は何も駄洒落を飛ばしているのではない、経験と痙攣と、たんに音が似ているというだけの組合せでないことは、一度でも詩を書いたことがある者なら多少とも思い当たるだろうし、また、アンドレ・ブルトンのあの『ナジャ』の末尾近くに読まれる「美とは痙攣的なものであろう、さもなくば存在しないであろう」という章句を想起する者もあろう、いずれにもせよ、したがって詩とは、あるいは経験であり、かつ痙攣であるかもしれない、あるいは痙攣的な経験である、あるいは経験的な痙攣である、といえるかもしれず、あるいは痙攣的な経験であり、かつ経験的な痙攣である、とさえいえるかもしれない、だが、わからない、たとえば経験と痙攣の和の2乗ぐらいが詩であるとして、それは経験の2乗と経験と痙攣の積を2倍したものと痙攣の2乗との和に等しいか、わからない、わからない、ともあれこうして、つぎには経験と痙攣の関係とそれぞれの実質が問われているのであるが、経験はたんに日常レベルでの個人的な体験をいうのではないだろうし、そういう意味では森川氏のいうように「意識下」のものでもあろう、経験とは生の厚みであるが、それは必ずしもたんに積み上げられた人生経験の豊かさではないということだ、それはやはり、痙攣的に生成されるものであり、では痙攣とは何か、たんに歩いたり話したりものを考えたりすることの機能的停止ではないだろう、おまけに経験といい痙攣といっても、それだけでは詩にならない、つまり言語が必要なわけで、あるいは言語がさきかもしれない、言語が発話においてくっついたり離れたりを繰り返すうちに経験を呼び込み痙攣と同調するのかもしれない、わからない、わからない、とりあえず私はこの大地の上に立って、立ったまま、立ったまま……

2011.1.27掲載

第30回 リレーエッセー

詩ではない詩  森川雅美


 ステンドグラスを通して射しこむ光は、淡く夢のなかのような印象がある。西洋の光であれば違うのだろうが、日本の光りだとどうしてもそのように思えてしまう。それが子供の頃の記憶であれば、印象はより淡い。一瞬に掻き消えそうにすら思える。あの中原中也の有名な、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という擬音が聞こえてきそうだ。たゆたうような浮遊する感覚、産まれるはるか前に聞いていた心音にも似ている。
 だが、私たちはもはやそのような幸せな音の中に、詩を置くことはできない。少なくとも、この音にただ身をゆだねるわけにはいかないだろう。この心地よさは意味を失い修辞として働きだすとき、底なしの全体性に巻き込まれてしまう意識と、同化しかねない。そのことは先の戦争の時の詩を読めばすぐにわかるだろう。
 もちろん、中也はそのようなことは百も承知だった。当然、彼の書くものは自らの経験をなぞるものではない。また、音感の非常に優れた詩人だが、詩が音楽になることも拒んでいた。詩を音楽にするのではなく、自らの経験と意識的に底辺でつながっていた。「私」の立ち位置はしっかり確保していたのだ。しかも、それは単なる経験でなく、意識の底部に残る、私を超えた意識下の経験だった。
 「詩は詩でないものから書かれなければならない」
 第二次世界大戦後の日本の詩はそのような場所から始まった。もう一度そのことを考えなければならないだろう

2010.12.23掲載

第29回 リレーエッセー

ひとひら 和合亮一


 遊びに行くと友だちの家の二階の部屋の窓には、ステンドグラスが嵌められてあった。
 土曜日にはこの場所で学校を開くから、またいらっしゃいと声を掛けられた。それからは毎週末になると、そこへと出かけた。生徒は僕たち二人だけ。
 友だちのおじさんが、いろんな物語を聞かせてくれた。紙芝居や、外国のメダル、美しい絵などを見せてくれた。そして神様のお話があった。一つ一つの丁寧な語りに、僕は聞きいっていた。
 その間も実は空の色に輝くステンドグラスが、気になって仕方がなかった。いつまでも見飽きることのない、光と色の世界。
 お終いにいつも三人で歌を歌った。ガラスに描かれている鮮やかな光景が、そのまま心の中に降りてくる気がした。彼は、讃美歌の意味をいつもきちんと説明してくれた。
 しばらくして、この家族は引っ越してしまった。けれど、家だけは残った。表からステンドグラスを見ることができた。誰もいない家のその窓を、学校帰りに見あげるのが、そして決まりになった。
 そうしていたら、ひとひらの雪。わざと野原を歩いて追いかけながら帰った。ほおに触れるものが教えてくれたのは、冬の美しさだった。

福島民報 十二月十二日付け
2010.12.15掲載

第28回 リレーエッセー

詩と詩人についてのメモ(4) 光冨いくや

蔵原伸二郎「きつね」。

きつね

狐は知っている
この日当たりのいい枯野に
自分が一人しかいないのを
それ故に自分が野原の一部分であり
全体であるのを
風になることも 枯草になることも
そうしてひとすじの光にさえなることも
狐いろした枯野の中で
まるで あるかないかの
影のような存在であることも知っている
まるで風のように走ることも 光よりも早く走ることもしっている
それ故に じぶんの姿は誰れにも見えないのだと思っている
見えないものが 考えながら走っている
考えだけが走っている
いつのまにか枯野に昼の月が出ていた


 狐という個は、個であり、そして全体でもある。全体であり、かつ個でもある。枯野という全体と、一匹という個。けれどもこの〈狐〉はひとであってもよいし、自分であってもよい。全体は世界でもあるし、群集でもある。
 たとえば、詩人たちのパーティでは、わたしは、その参加者のひとりであるけれども、いつもとても孤独だ。それは周りにひとがいても、いないが如くである。ひとと談笑しても、わたしの胸にある穴はふさがれない。関心のある話をしても、交流をもとうと思って話をしても、ふさがれない。だから、ただ佇んでみる。ワイングラスを片手に、着飾ったひとたちの間に、立って、全体の光景を見ている。
 すると、わたしは一匹の狐になり、そしてパーティ会場は枯野になる。このとき、わたしは個であり、そして全体である。全体でもあり、個でもある。わたしはわたしの姿が、パーティ会場に集まったひとたちに見えないことを知っている。それは実存の問題ともいえるかもしれないし、見えないものが見え、見えるものが見えないという現象の問題ともいえるかもしれない。わたしたちが見ているものは果たして現実なのだろうか、幻なのだろうか。わたしたちは、おそらく生の現実を見ることはできない。見えるものは、幻想というフィルターを通したものなのだろう。そこで狐は何を見るか。

蔵原伸二郎。1899年、熊本に生まれる。慶応義塾仏文科卒。代表詩集に『東洋の満月』『岩魚』など。戦争に協力的な詩を書いてしまった時期があるとも見えるが、おそらくは当時それを過ちとはいえなかったのだろうと思う。その後、幽玄味な感覚のある叙情的な作風で優れたものを残した。「きつね」は1955年、44歳頃に「詩学」十月号に発表された。1968年死去。ちなみにわたしはその前年に生まれた。

参考図書:『日本の詩歌 24巻 丸山薫 田中冬二 立原道造 田中克己 蔵原伸二郎』(中央公論社)

2010.11.7掲載

第27回 リレーエッセー

リレーエッセイ4  荒川純子


 先日、自分の詩で初めて泣いた。
 少し前に歴程で一緒の北畑さんに、私の出身が埼玉県だと話したことがきっかけで「文芸埼玉」に詩を寄稿する機会を頂いた。若い頃は丁度“ダさいたま”という言葉も流行った時で埼玉に住んでいることを恥ずかしく思っていた。でも今はそんな事も思わずに、自分と関わりのある埼玉県の文芸誌に載せていただくことは光栄に思え、「文芸埼玉」を発行するさいたま文学館のある桶川市は私の出身の上尾市の隣であることにも親近感があった。私は最近書いた詩から慎重に選び「ラ音」という詩に決めた。3連目を抜粋する。

鳴り始める/足を踏み入れたそばから/スカートのすそをたくしあげるだけの私の/義務感だけを感じ爪を噛む私の/ラ音が/私はまだ黒い髪や色のついた唇/湿り気のある手のひらと長い指先を失ってはいない/音の波に高揚して/私はここで多くのラ音と溺れる/

 掲載数日後に「文芸埼玉」より一通の手紙を頂いた。同封されていたのは文芸埼玉の私の詩を読んでくださったKさんという男性の手紙だった。Kさんにも私と同じような「ラ音」が鳴っていること、私の詩に感動と痛みを覚えたことなど書かれてあった。それを読んだ途端、私はわーんと泣けた。これほど強く自分の詩を誰かと共有できた感激なんて初めてだったし、こんな手紙は初めてもらった。同じような人が私以外にもいた、今まで詩を書いていて良かった、やめないでいて良かったといろいろな気持ちが私の中であふれた。「文芸埼玉」に電話をいれると、そのKさんはわざわざさいたま文学館に来館し、手渡しで手紙を預けたというのだ。その行為にも私は感激した。自分の詩が誰かに刺激を与え、行動させたこと、詩の言葉がきちんと届いたことがとても嬉しい。

私の中からラ音が鳴り終わったとき/口を閉ざし名ばかりの妻と母に戻る/そのうちまたラ音がざわつきだすと/私は訪れる/そのくりかえし       「ラ音」最終連

 この数年自分の環境の変化と共に詩が変化した。その変化が詩にあらわれることは詩人としても、自分の詩にも自信を与えなかった。でも今はどうやってもこの詩しかこの言葉しか出てこない・・・。前回のリレーエッセイ担当の長谷川さんも詩は観念的になってはいけないというが、私も以前からそこには注意を払っていた。合評会にも長いこと参加していないし、同人誌への発表も減っている。ひとりで書いているとつい観念的になってしまう。そのような現在の状況の中で、この手紙は私にとって勇気をくれた。ありがとうKさん。そして、私は詩を書こう、この先もずっと、と私の気持ちをあらためさせる出来事だった。

2010.11.4掲載


第26回 リレーエッセー

阿呆である 長谷川 忍


 視覚的なタッチで作品をまとめたいという気持ちが強い。読んで下さった方の脳裏に作品の情景がくっきり浮かんでくるような、と言ったらいいのだろうか。だから、なるだけ外に出、街中の空気を吸うことにしている。街をテーマにした作品でなくとも、街並みを見、人々の匂いを嗅ぎ、自らの身体を動かすことで、紡ぐ言葉が立ち上がってくるような気がするのだ。
 机の上で詩を書くということをあまりしない。きちんとした文章(随筆や評論など)を書く時は、机に腰を落ち着かせる。詩を書く時は、戸外を歩きながらぶつぶつと詩のフレーズを頭の中でこねくり回していることが多い。手帳をいつもポケットに忍ばせ、思いついたフレーズをその場で手帳にメモしていく。身体を動かしているので、おのずと言葉にも節というかリズムが加わってくる。思いついたフレーズをその場で実際に声に出して語ってみることもある。
 そんなことを繰り返しているうち、自分の中で熱を帯びた言葉がふっと湧き上がってくる。怒りであったり、哀しさであったり、滑稽さであったり、優しさであったり、テーマや背景はさまざまだが、ひとつの「核」になってくるフレーズだ。その核をしっかり捕まえることができたなら占めたものである。核を詩のほぼ起承転結の「転」の部分に据え、そこから言葉を肉付けしていく。転の部分がしっかりしていないと詩そのもののバランスが崩れるし、何より、収まりが悪い。ある程度核を具体的に捉えられたら、そこから先は、机上の作業だ。熱が持続しているうちに言葉を肉付けしていく。肝に銘じているのは、観念的にならないこと。観念的になるというのは、言葉を頭だけで考えている証拠である。故にどこまでも言葉が平面上を漂ってしまう。
 ところで、私自身、今どんなものに熱を感じるのだろう? つまり、私という人間の源になる部分と言っていい。
 毎日の暮らしの中、仕事の現場や、独りに戻った時や、友人との付き合い(既婚者であれば、配偶者や子供との関係も含まれてくるだろう。幸か不幸か、私は独身である)…、どうしても人間関係の中で感じた熱に絞られてくるようだ。上手くは言えないが、一生懸命になってしまう人の、その奥底に滲む、どうしようもない滑稽さ、哀しさ、そういうものが今とても愛おしくてたまらない。人間のそういう部分に触れると、とにかく抱きしめずにはいられなくなるのだ。
 街の陰を背景に置き、その人のために言葉を紡ぐ。言葉で抱きしめる。偽善だ、と時に自己嫌悪に陥ってしまう。それでも抱きしめずにはいられない。阿呆である。

2010.10.30掲載

第25回 リレーエッセー

歌うように詩を口ずさむ(4)  伊藤浩子

 男が携帯電話の向こうからとても小さな声で口ずさむのが聴こえる。

It is evening in the town of X
where Death, who used to love me, sits
in a limo with a blanket spread across his thighs,
waiting for his driver to appear. His hair
is white, his eyes have gotten small, his cheeks have lost their luster. He has not swung his scythe in years, or touched his hourglass. He is waiting
to be driven to the Blue Hotel, the ultimate resort,
where an endless silence fills the lilac-scented air, and marble fish swim motionless in marble seas, and where…Where is his driver? Ah, there she is, coming down the garden steps, in heels, velvet evening gown,
and golden boa, blowing kisses to the trees.

夕刻 Xという街では
死神が むかし私を愛した死神が
リムジンに乗り 膝にブランケットを広げて 
運転手が現れるのを待っている 髪は
白く 両目は小さく窪み 頬には
かつての栄誉はない 
もう幾年も鎌を振り回していないし 
砂時計にも触っていない 最後のリゾート ブルー・ホテルに連れていかれるのを
待っているのだ そこでは 
終わりなき沈黙が
ライラックの香る空気を満たし
大理石の魚が
大理石の海を静止しながら泳いでいる
また そこでは・・・ 運転手は一体どこだ?
ああ彼女だ
庭の階段を下りてくる
ハイヒールを履き ベルベットのドレスと
金色の毛皮を身に付け
そして樹木にキスを投げかけている

 私は携帯電話を握り締めながら、英語をひとつひとつ日本語に丁寧に置き換えてみる。
 それからかつて寝室だった部屋にはいり、かつてクローゼットだった戸棚を静かに開ける、モーションレス、ここでも、そう、モーションレス。
もう何もないと知りながら。
 クローゼットの向かって一番左側に、ベルベッドのドレスがきちんと用意されている。金色のファーが襟元についた、夜会用ドレスだ。私のためのものなの? 足元にはファーと同系色のハイヒールが揃えられていて、ふいに彼女は母親が好んで使っていた、リップグロスの色を思い出す。
 彼女はもう、とっくの昔に死んだのだ、幼かった私を捨てた、そのときに、どうしていつまでも彼女のことを思い出してしまうんだろう? 
 それでもハイヒールの、つま先から踝までのラインは母親の唇にとてもよく似ている。
 私はガーター・ベルトからストッキングをはずし、右足だけ履いてみる。
 もう何日も冷蔵庫に入れられて、そのまま忘れ去られていた果実を食べたときのような感触、背筋まで甘く痺れ、とても冷たい。
 男がわたしを待っている場所は、どこだっけ?
 ドレスの胸に銀色のピンで留められたメモがあり、それを手に取るときに、私の人差し指は傷つけられてしまう。痛い。仕方なく指先を唇に入れると、なつかしい味と匂いに包まれる。
 そういえば、少女だった私は、金魚鉢からあやまって飛び出た金魚を、この足で、今の冷たい右足で、踏み潰したのだ。
 窓から差し込んでいた灰色の月明かりが部屋を横切り、刃の幻視、誰かの手が自分の両肩に置かれる気配がする。
 手の中のメモに、失われた文字がうっすら浮かびあがるのが見える。

*英詩はMARK STRANDの『2032』、和訳は伊藤によります。

2010.10.24掲載

第24回 リレーエッセー

「わたげ」の機微 野村喜和夫


 秋はいつも出演イベントが多くなるが、今年も目白押しだ。特筆すべきなのは、そこに定型をめぐるシンポジウムがふたつも組まれていることだろうか。10月16日の詩歌梁山泊シンポジウム(三詩型交流企画)「宛名、機会詩、自然」(出版クラブ会館)と、11月6・7日の、現代詩セミナーin神戸「詩のことばと定型のことば」(神戸女子大学教育センター)。
 そこで、詩のリズムについて、発言をすこし準備しておこうと思う。音数律、とくに7音と5音の組合せが日本語の韻律の基底にあることはたしかだが、どういうわけだろう、私の場合、ほとんど反射的あるいは本能的に、自分の詩句が7・5の音数律に収斂するのを避ける傾向にある。蛇に出くわすと思わずぞっとして身をそらすのと同じだ。
 夢見るようにいうなら、私は、音数律の問題をより広くリズムの問題へと解き放ちたいのである。あらゆる文学生産には定型(=音数律)を生み出す力があり、それを無視することはできないが、同時に、定型(=音数律)が生み出す力もあるのではないだろうか。
 森川さん(ほかならぬ詩歌梁山泊の企画者だ)が出してくれた例でいえば、山村暮鳥が前者に、萩原朔太郎が後者にあたるように思われる。暮鳥の「にくしんに/薔薇を植ゑ」というのは、イメージ的にはある意味すごい組合せだが、リズム的には定型律にとどまっており、ひいてはそれが暮鳥の詩的エクリチュールの限界になったような気がするのだ。一方、朔太郎はどうか。
 例の「竹」連作に、「根の先より繊毛が生え」という詩行があり、この「繊毛」を「センモウ」と読むか「わたげ」と読むかで議論がある。ふつうに「センモウ」と音読みしたくなるし、事実、7・5の音数律をベースにしているこの詩ではそう読むのがよいとする論者が多いなかで、那珂太郎は、「わたげ」と訓読みすべきではないかと強く反論する。根拠とする理由はふたつある。ひとつは、ある版で朔太郎自身がじっさいに「わたげ」とルビをふっていること、もうひとつは、より詩の構造に内在する理由として、「音韻の磁場」つまり「竹」tAkE「根」nE「生え」hAEとつづくAとEの母音反復の効果が「繊毛」wAtAgEにも及んでいるはずであること。
 さすがは『音楽』の詩人那珂太郎だ。私は断然那珂説につきたい。というのも、この「わたげ」の機微こそ、定型が生み出す力なのである。「わたげ」と読むと、7・5の音数律からわずかにずれてしまうけれど、そのずれ、その差異が「音韻の磁場」に、すなわち、しかじかのテクストに固有の、内在的な言葉の音楽に通じるのだ。
 ふたたび夢見るようにいうなら、音数律が生み出す差異としてのリズム、音数律とはねじれの位置に、あるいは音数律をありうべき基底としつつも、そこに回帰してしまうことはなく、別様のあり方へと──音素のレベルから連辞やイメージの組成、さらにはテクスト全体の構成にいたるまで──もたらされる主体の声としてのリズム……

2010.10.5掲載

第23回 リレーエッセー

「普通ではない文体」として 森川雅美


 1925(大正14)年に詩集『雲』が刊行されたとき、山村暮鳥はすでにこの世にはいなかった。前年に肺結核で40年の生涯を終えていた。その平明な言葉による詩集が、彼の詩の終着点であるとするとすると、出発点は日本の言語実験自由詩の嚆矢といえる『聖三稜玻璃』だろう。1915(大正4)年に刊行されていて、2年前に『三人の処女』が刊行されているので、第一詩集ではない。しかし、『三人の処女』は習作の様子が強く残っており、やはり『聖三稜玻璃』が出発点というイメージが強い。しかも、『聖三稜玻璃』は斬新さにより、萩原朔太郎など一部を除いて、辛らつな批判にさらされる。そのため、暮鳥はその後困難な詩作を余儀なくされる。そのことは暮鳥にとって大きな打撃だっただけでなく、日本の自由詩にとっても大きな不幸だった。
 現在は『聖三稜玻璃』は高く評価され、私はもう一つの自由詩の可能性だったと、その不評を残念に思っている。「囈語」や「風景 純金モザイク」などの実験性の高い作品が有名だが、ここには小品「烙印」を引用したい。

あをぞらに
銀魚をはなち
にくしんに
薔薇を植ゑ。

 言葉は明らかに引き裂かれている。散文的文脈を拒否しているといっても良い。先日、あるシンポジウムで、江代充さんが、「普通の文脈ではかけないもの」という発言をしたが、それは書き直して言葉の脈を変えるのではなく、はじめから「普通ではない文体」として、詩が想起されることだそうだ。そのことは慕鳥にもいえるだろう。
 しかし、自由詩の黎明期になぜこのような詩が可能だったのか。そこには、散文(私小説)との婚姻によって、成立した朔太郎の大成した口語自由詩とは、異なる道筋が見える。よく読むと、『聖三稜玻璃』の詩は、字余りや字足らずを含んだ七五調が多い。引用の詩も銀魚を「ぎんうお」か「ぎんぎょ」と読めば、五八五五の律になるし、他の詩も近いリズムを持っている。あえて誤解も含んでいえば、このリズムが故に困難なつながりの言葉も、詩として保たれているといっても良い。そして、皮肉なことに、当時の悪評のもう一つの理由はここにある。
 ここで思うのは、定型的な律を持つから自由詩でないかということだ。少なくとも、暮鳥の場合は、リズムも言葉の意味の屈折も含めて、必然として発露しているように思える。そこにはキリスト者として悩んだ、原罪の意識が根底にあるのでは、という思いが最近湧き出し始めてきてもいる。問いは現在にも深く突き刺さる。

2010.9.23掲載

第22回 リレーエッセー

くも 和合亮一


 玉のような汗。三十度を超えると「暑い」が口癖になってしまう。見上げると険しい顔をした入道雲。
 特に本日は三十八度を超えた気温のせいなのか、荘厳に、そしてどこか、そら恐ろしくすら見えてしまう。
しかしふだんは優しい顔の時の方が多い。悩んだ末に、ふと空を見上げて雲がぽっかりと浮かんでいると、肩の力が抜けて「ま、いいか」と思い直したりする。時には励ましてもくれるのだ。
 「お~い、雲よ」と呼びかけたのは、山村暮鳥。「どこまで行くんだ ずーっと磐城平の方まで行くんか」。
 〈磐城〉+〈平〉の言葉の響きが、なんだか無限に広がる真っ白な時間の原野を思わせてくれるかのようだ。 
 暮鳥と磐城の人々の想いが込められているフレーズ。〈磐城平〉は、まるで世界中の雲が向かっていく、聖地。
 「くも」という題の短い詩。「空が青いから白をえらんだのです」。たった一行だけの作品。「奈良少年刑務所詩集」(長崎出版)の冒頭にあった。心が惹かれた。見つめる。
 それぞれに、同じ夏の盛りがあり、見上げるそれがある。空の果てには何があるのか。
 突然にぱらりと雨滴が少しだけ降った。晴れ間。雲も汗をかく。

8月14日付け福島民報新聞文化欄)

2010.9.20掲載

第21回 リレーエッセー

手帳   杉本真維子


 「雨ニモマケズ手帳」をときどきひらく。これは以前、詩のワークショップの講師として岩手県を訪れた帰りに、宮沢賢治記念館で購入したものだ。
 よく知られているように、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は作品として発表されたものではなく、あくまで手帳に書きつけられたプライベートなものである。これはその手帳の完全な複製版で、他人の手帳を覗きみるどころか、買い求めるという行為の大胆さに、一瞬ひるんだ。一瞬どころか、長々と迷った。でも、無数のひっかき傷のような生々しい文字を見ていたら、なんだかこれさえあれば、生きていかれるような気持がしてきて、よし、と大きな決心をして、レジへ持っていった。
 そのあとで、ずっとむかし、最終行の「そういうものにわたしはなりたい」が、「人」ではなく「もの」であるということにはっとして、詩ぜんたいが、すとんと心の中心に落ちたことを思い出していた。
 たとえば「ニシニツカレタハトアレバ、ソノワラノタバヲオイ」というくだり。ここでは困っている人を助けるために、東西南北を奔走することへの願いが書かれている。けれども、体が弱く、病気を患っていた賢治に、本当に「行く」ことなどできるだろうか。いや、病気でなくても、じっさいに人が、人助けのために、日本中を駆け回ることなどそうそうできることではない。まるで「行けない」という現実に逆らうように、「行ッテ」という赤く乱れた大きな文字が、手帳の欄外に、書かれている。
 それから終盤の「ホメラレモセズ、クニモサレズ」というくだり。そのように誰にも気にもされない「デクノボー」になりたいという願いは、前半の「助けたい」という願いとは少し噛合わないような、不思議な印象があった。
 つまり、ここで「なりたい」と願われているものは、空気のように見えない存在、あるいは、不可能なものを突き破ってのびる眼差しそのものであるように思えた。そして、このかたちのない何かは、まさに詩としか言いようのないものだ。私は、微かな罪悪感のなかでこの手帳を開くたび、賢治自身が、詩になりたかったのではないか、という思いにとらわれる。

2010.9.17掲載

第20回 リレーエッセー

詩と詩人についてのメモ(3) 光冨いくや


吉原幸子。
「無題(ナンセンス)

風 吹いてゐる
木 立ってゐる 
ああ こんなよる 立ってゐるのね 木

風 吹いてゐる  木 立ってゐる 音がする」

 吉原の代表的なこの詩では、風の吹く中、一本の木が立っている、その風の音、屹立する木の存在感・孤立感・孤絶感から詩が始まる。この次の連では「よふけの ひとりの 浴室の」なめぐじに塩をかける孤独な遊びをしているさまを描く。
「おまへに塩をかけてやる
 するとおまへは ゐなくなるくせに そこにゐる

   おそろしさとは
   ゐることかしら
   ゐないことかしら」
その小さくも残酷な遊びもさることながら、<存在>という不可思議さと、リアルな恐ろしさに背筋が寒くなるような気さえしてくる。この詩においても、このような詩を書く女性においても。エロスと怖さのある詩である。

また「狂」という作品では、
「さんさんと
 殺さう 片わの うつくしいへび」
 というタイトルにもあるような狂気と官能性のある世界を築く。さかさまの馬、月、子を抱くマリアの赤い涙、指を削って赤い血を書く、自動車が海のなかでゆっくり衝突する……、次から次へと、鮮明なイメージと狂おしい妄想のようなものが続いていく。そして、こう結ぶ。
「かはいそ かはいそ かはいそ
 みんな だれもかれも」
 暴力的にも思える同情とも、むしろ素っ気無さとも。

 吉原幸子は1932年、いまの新宿区に生まれる。東京大学に入学、演劇研究部に所属していた。文学部仏文科を卒業、劇団四季に迎えられ主役を演じるが、退団。映画助監督の松江陽一と結婚、長男を出産、翌年離婚した。「歴程」同人となる。処女詩集『幼年連禱』で、室生犀星賞を受賞。ほかに詩集『昼顔』で高見順賞、詩集『発光』で萩原朔太郎賞受賞など。80年代から90年代にかけて女性詩誌「ラ・メール」を新川和江と共に刊行していた。2002年に70歳で死去。
 若いころの肖像写真を見ると、美しい女優のそれと、透徹した眼差しを持っていた。女性詩人のその存在感は、「無題」の作品のなかの、屹立する「木」のようでさえある。

参考図書:『現代詩文庫・吉原幸子詩集』(思潮社)、『現代詩大辞典』(三省堂)

2010.8.30掲載

第19回 リレーエッセー

リレーエッセイ3  荒川純子


 毎年、息子の夏休みの宿題を手伝いながら1年間世話をした生き物をふり返る。自由研究に生き物の観察を選ぶからだ。息子は工作だけでいいと面倒なようだが、飼ったカエルやセミ、昆虫を記録に残すことは彼らを忘れないでいられるし、無理やり自然から引き離してしまった(私の)罪悪感が和らぐからだ。
 昨年はカエルやヤモリ、セミの羽化がテーマだったが、今年はカブトムシを育てたのでその記録と私の住むマンションの駐車場に巣を作ったツバメの観察を選んだ。
 ツバメは卵からヒナにふ化し、ふんを私の車にたくさん落としながら成長して巣から独立した。カブトムシのついでに飼ったような手をかけないコガネムシは元気に飛んで去っていったが、土を何度も替えて嫌になるほど気にかけたカブトムシは卵を産み、幼虫の姿を3度変え、サナギから無事成虫になったが結局、羽根が上手く広がらず死んでしまった。楽しかったカブトムシの飼育も最後は「空を飛んで欲しかったね」と息子と二人でさみしい気持ちでレポートを完成させた。

 数年前、私は詩人で女性で、という立場でずっと詩を書いていた。しかし第一詩集を出してすぐに妊娠、仕事をやめ、入籍し妻になった途端、出産し母へというあわただしい経緯があった。その時は、全てを両立し、上手くやっていこう、上手くやっていけるさ、という自信があった。でも現実は難しかった。詩は今までと同じ様には書けず、妻や母とは社会と関わることだと知り、時間は私のために数分すら余らなかった。試行錯誤の上、優先順位をつけざるをえなくなり、私は母の立場を最上級に選んだ。今年のはじめのことである。そうと決心すると、滞っていた詩は書き始めることができ、今まで苦手だった内容の詩集も読みすすめる心の余裕ができた。この数年、私の手元に多く寄せられたものに、家族の介護や死について、生活の中で生まれた詩などの詩集が増えていた。これらは私の苦手で今までわかりにくいと思える詩のタイプで少し敬遠していた。でも自分も歳をとり、両親は高齢になり、子供のために社会と交わっていくことが大切になってきた今、それらの詩が理解できて共感し、あえてそれらを詩に書いた書き手の立場もわかり、生活に近い日常の詩を素直に受け入れる自分がいた。年齢なのか、私が自分の立場を認識したからなのか。
 詩を書く女性の誰もが私のように迷うとは思わない。みんないろいろな顔を使い分け、器用に上手に歳をとって詩を書いていくだろう。私は気がつくのに少し時間がかかったけれど今の自分の選択に納得している。詩を書いていれば詩の世界とは繋がっていられるのだ。
 小学校の夏休みもあと約1週間。以前の友人達は子供嫌い、昆虫嫌いだった私の一面を知っているから一緒に宿題をやっていると聞いたらきっと驚くだろう。人の気もちや考え方は変るものなのだ。私がその証拠だ。 

2010.8.23掲載

第18回 リレーエッセー

他者 長谷川 忍


 吉野弘さんの詩を読み返している。再読しながらあらためて考えたのは、他者との関わりについてだった。主要作品のほとんどに、何らかの形で他者への視線が向けられている。それは人間であったり、時に、樹木や虫たちにも注がれる。
「私も あるとき/誰かのための虻だったろう/あなたも あるとき/私のための風だったかもしれない」(「生命は」)
「人という辞令をもらった私は/見ている/蝿という辞令をもらったものの翅が/ありあまる光に温められているのを」(「日向で」)
「夕焼け」も、電車内で席を譲る心優しい少女の哀しみを見守る温かい視線が作品に溢れていた。
 いずれも、他者との関わりの中から自らの姿勢を問いただそうとする作者の視線が垣間見える。自己の抑制や、人への思いやりも、他者の存在があって初めて生まれてくるものだろう。
 彼の処女詩集である『消息』(1957年)には、当時携わっていた会社の組合役員の立場から見た企業の姿がてらいのない言葉で語られている。現在より組合がずっと活発だった昭和20年代、専従書記として会社の首切りストなどではかなりの苦渋を舐められたという。他者への関わり、もっと突き詰めて言うなら「弱者の側からの視線」が育まれていった背景に、かつての組合体験が少なからず影響していることは間違いない。
 代表作といわれている「I was born」も、この処女詩集の中に収められている。詩人としての完成度は早い時期から確立されていたようだ。
「I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね」
 ふとすれ違った身重の女性の姿を見ながら、父は「僕」に蜻蛉の話をしてくれる。生まれてから数日で死んでしまう虫であること。口は退化し、食物を摂るに適しないこと。ところが、卵だけは腹の中にぎっしりと充満していて、ほっそりした胸のほうにまで及んでいる…。
 生き物は、本来「生まれさせられる」受身の存在である。そこから、母へのいとおしさ、さらには切なさといった感情が芽生える、ということを分かりやすい言葉で読者に伝えてくれる。明晰さをもって、というふうに言い換えてもいい。そこには独り善がりな抽象さは微塵もない。
 ともすると何もかもが自分本位に陥ってしまいそうな今という時代に、彼の詩は、自らをも含めた他者との関わりの大切さを、厳しさとさり気なさを込め読者に提示してくれているような気がしてならない。表現の、平明さ、具体性、はその裏返しであり、吉野さん自身の反骨でもあるのだ。

2010.8.13掲載

第17回 リレーエッセー

歌うように詩を口ずさむ(3)  伊藤浩子


 剥き出された真っ白い蛍光灯の部屋の片隅に、宙に浮いたファックスが鳴り響いていた。そのけたたましさに、電気の波動音と雨音とが混ざり、Am7(9)と同じ響きになっている。
 壁には大きく膨らんだ女の影がゴシックなレースではりつけられていて、どこまでも身動きが取れない。肉の影はところどころ波打ったあとでオルガスムスを迎えたかのように引き攣り、赤黒い吸引性皮下出血が光を弾いて壁に滲みながら沁み込むが、消えそうで消えない。
 手前には男の満たされない願望を映す、噛み切った深爪と、執拗で緩慢な貧乏ゆすりが、メトロノームになって両極に振れ、ワルツを産出し始めている。
死んだ子どものための、真新しい産着の甘ったるい匂いが陽炎のように揺れているのが、死そのものよりも腹立たしかった。
(ねえ、子どもを返して欲しいのよ、あなたがよく盗んでくる青蛙やらんちゅうなんかじゃなくて《空から降ってくる鯖? なに、それ? 十二聖徒の預言みたいなもの?》、とにかく子ども。十ヶ月もの間、わたしと一体だったジョゼフ・メリックという名の。
わたしだったら彼を深く深く愛することができる。彼の動かない右手をとり、歪んだ唇に乳房を押し付けて、こすりあわせた両膝に注がれる彼の視線に、わたしだったらいつまでも耐えることができる、そのときわたしが心の中で叫ぶ言葉は『Freak, fuck me hard! 』でいいのかしら?)
 ファックスからは言葉だけがこぼれ落ちて、われわれの体液にも似て、どうしようもなく背中全体がむず痒い。
 吐きそうだ/吐いてしまえ。
 いや、そうじゃない、この場所のすべて、われわれ自身が排出された体液そのものなのだよ、けだし、われわれにとっていかにも象徴的なのは、吐き出すことではなくむしろ呑み込むこと。この夜をそっくり呑み干してしまえ。
 なにかがつぶやく。
 ここにはいない、そしてどこにでもいるなにか。わたしたちよりももっとずっと大きななにか。
 そのなにかかが、わたしたちの首根っこを引っつかんで、無駄なAm7(9)と体液の夜を支配しているのだ。
(だからさ、吸ってくれよ、もっと、もっとさ、下品に塗られた安物のポエティカスの紅で、大いなるなにかに毟りとられた翅の傷跡の瘡蓋に、もっと大きな赤黒いしるしを噛み付けてくれ。)
 飼い犬が寄ってくる。
 わたしの肌に染み付いた夜をうまそうに舐める。わたしは飼い犬がいとしくて首に腕をまわして抱きしめる。首がぼとりと転げ落ちる。ばらばらになった顔部を拾い集めて元通りに直そうとするが、首は何度も何度も転げ落ちる。
 壊れた人形のように。
 それでも、まだ飼い犬は舐めるのをやめようとしない。
 おかしい。
 なんておかしいわたしたち。

 床の上で携帯電話のバイブレーターが私を呼んでいる。
 寝具のないベッドから手を伸ばし、私は夢うつつのまま電話を耳に当てる。なつかしい声。男は言う、「言葉と言葉との関係性を時間の隙間のように緩めるとね、そこになにかが浮かびあがってくるんだよ」。
 雨はまだ降り続いている。朝にはまだ間がある。私は男の、次の言葉を待っている。

2010.8.5掲載

第16回 リレーエッセー

別様のリアル 野村喜和夫


 マラルメ全集(筑摩書房)がついに完結しました。全5巻。最初に出た第2巻「デイヴァガシオン他」の奥付をみると、1989年。なんと、完結まで足掛け20年にもおよぶ難事業だったことがわかります。その原因のひとつは、「賽の一振り」をはじめとする詩作品の翻訳の困難さによるものでしょう。じっさい、最後の配本となったのは、ほかならぬ第1巻「詩・イジチュール」で、それだけ訳出に時間がかかったということになります。
 マラルメがやったこと、やろうとしたことは、森川さんのいう「生活のリアル」とはそれこそ対極に位置していますが、しかしそこには、言葉を生きるということの別様のリアルが息づいていたような気がします。マラルメの企図を詩作の実践に即していうなら、語と語の組合せを、意味のみならず音や文字面にも細心最大の注意を払いつつ、極限まで──「私」を非人称にまでして──追求しようとしたことです。そうでもしなければ、あらかじめ与えられてしまっている〈現象〉としての言語をひとつの〈存在〉にまで高めることは到底できない、とマラルメは考えたのでしょう。
 たとえばフランス語で「昼」はjour(ジュール)といい、「夜」はnuit(ニュイ)というのですが、意味内容とはあべこべに、前者のほうが暗く、後者のほうが明るく響いてしまうことを、マラルメは大いに嘆きました。だからといって、jourに代わる、もっと明るい響きをもつ単語を勝手に作り出すわけにもいきません。それが言語というものの限界です。ではどうするか。語そのものを変えることができないのなら、語と語とのあいだを大胆にまた精妙に変えていくしかない。
 これが私のいう別様のリアルです。このリアルを生きることによってマラルメは、「部族の言葉」に「より純粋な意味」を与えることができると考えたわけです。そう、ちょうどベンヤミンが、諸言語のあいだ、つまり言語から言語への翻訳という行為に「純粋言語」を夢見たように。
 ついでにいえば、そのベンヤミンが、言語の詩的もしくは魔術的側面にふれて、「この領域をもっとも深いところで解明しているのはマラルメだ」と、その『来るべき哲学のプログラム』にはっきり述べているのは、不思議に因縁めいていると言わなければならないでしょう。ベンヤミンとは比較にならないくらい、時代も場所もマラルメから遠くへだたったところにいるわれわれですが、いやしくも言語空間の冒険に乗り出そうとする以上は、ほんのわずかでもいい、この極北の詩人の大いなるパラノイアの分け前にあずかろうではありませんか。

2010.7.12掲載

第15回 リレーエッセー

音からつむぎだされる言葉 森川雅美



 現在、東京の杉並区永福に住んでいるが、蛙の声はあまり聞かない。まして合唱など聞く機会はない。
 私はある地方都市の郊外の新興住宅地で育った。近所に田んぼはなく、毎日、蛙の合唱が聞こえる環境ではなかった。とはいえ近所には小さい沼や池がいくつもあり、そこに行けば蛙の合唱を聞くことはできた。しかし、いま私が生活してるような場所に生まれ育った人間には、そのような蛙の合唱を聞く機会はほとんどない。旅行に行ったときなどに聞ける程度だろう。いわば、蛙の声は日常にはないのだ。
 先日、台湾の詩人の向陽さんの詩の朗読を聞いた。圧巻は台湾語と中国語が交じり合い、その他にも様ざまな国の固有名詞が飛び交う、多重言語の詩「舌を噛む詩」の朗読だった。かなり早いスピードで、異なる音の言語が発せられ、それが声の洪水となり押し寄せてくる感じだった。一部引用する。本当は原文を引用したいのだが、ワードに中国語や台湾語がないので、三木直大さんの訳で引用する。

DoReMiヲ吹クノガ好キナ人モイレバ、歌仔戯(ゴアヒ)ヲ口ズサムノガ好キナ人モイル、
モーツアルトやドビッシーが好キナ人モ、チャイコフスキーのアノ長イ長イ曲ヲ聴イテイル。
ハンバーガー、ステーキ、豚足、鳥の骨付きもも肉、鴨のハム、それからSaSiMiが食べきれない、

 同じ多重言語の詩でも、日本の吉増剛造さんの詩とは対照的だ。吉増さんの詩にも言葉の自由はあるが、現在の生活でなく、すでに消えた言葉の記憶の古層にある音。遺跡の発掘にも似て、すでに滅びた時間の遺物を、掘り出していることは否定できない。対して、向陽さんの詩は、現在の生活のリアルそのものだ。まさに生きている言葉だ。もちろんこれには、台湾の長い植民地支配と、その後の一党独裁の白色テロという、不幸な歴史が基底にある。不幸な歴史が言葉の自由さを鍛えたといっても良い。
 たぶん日常にない音は、生活のリアルとして詩に表されることはないだろう。
 向陽さんの朗読を聞いて、現在の生きている場の言葉を思った。日常にない言葉は特殊な作業を経なければ表現できない。もはや蛙の声すら日常にない生活の中で、私たちはどのような言葉をつむいでいくのだろう。

2010.6.17掲載

第14回 リレーエッセー

蛙の第九 和合亮一



 田植えが終わり、稲がきちんと並べられて、水の張られている様子が好きである。
夜になると楽しみなのが、ここで繰り広げられる蛙の歌声である。
 書斎の窓を開けて、蛙たちのおしゃべりを耳にしながら読み書きをしていると、例
えば原稿が上手くまとまらずとも満足だ(それは困る)。コーラスは初夏の訪れを告げ
ると共に、涼しい風と一緒に窓辺にやって来て、不思議な活力を与えてくれるような
気がする。
 草野心平さんが「蛙の詩人」と呼ばれるほど作品に姿を描き続けた理由。耳を傾け
ていると分かる気がする。暗くなると田畑を支配するかのように高らかに交わされる
彼らの声。地の響きは命の謳歌に思えたのだろう。
 心平さんは良く蛙の話になると目を細めて親しい表情をしていたそうである。家族
や友だちのことを語る気色だったと聞く。それを想像すると、蛙の存在とは作品の材
料ではなく、詩を書くための仲間だったのではないかと感じてしまう。
 詩…。原稿用紙の上にやってくるものを待っているが、何やら気もそぞろとなり、
ふらりと散歩へ。私の暮らす文知摺の界隈は、見渡すほどの水田。
 わっ、と迫る蛙声。演目はさながら第九。

(福島民報文化欄 詩の読本 6月13日付け)

2010.6.15掲載

第13回 リレーエッセー

怒りのように美しい 杉本真維子


 先日、東京・日暮里で行なわれた朗読会に行き、椅子に座ったとたん、画用紙くらいの大きな紙が一枚、ぺたりとコートにくっついた。あれ?と手で軽くよけようとすると、それは強い粘着性の何かで、もがけばもがくほど糸が伸びて伸びて、腕のほうにも巻きついてきて、もう全身ぐるぐる状態になり、転げでるように店の外へ飛び出した。
 夜、家族にコートを見せると、なんとそれは〝ねずみとり〟であった。なぜそんなものがサイドテーブルにぽんと乗せてあるのか。やけに大きなコバエとりだな、と思ったらとんでもない。結局、買ったばかりのコートは捨てるはめになり、客席にこんなものを置いておく店の怠慢さは信じられないが、もっと信じられなかったのは、私が苦情のひとつも言わずに、そのまま黙って店を出たことである。
 なぜ何も言わないのか。ときどき人に驚かれるくらい、私は沈黙をとおしてしまう。でも、こうして黙っていることと、私が書いている詩には、深いつながりがあるような気がした。そして、かつて詩に、こんな言葉を書いたことを思い出した――「言いたいことは言わなくてよい/言いたくないことを抉じ開けるように書くのだ」。
 もしかしたら、自分の意思で〝言いたいこと〟を沈黙の下に流しいれているのかもしれない。それによって、無意識に、沈黙そのものを支えようとしている。その上にぽつぽつと浮き立っている、あぶくのようなものが、私にとっての詩の言葉なのだろうかと。
 でも、こういう災難な話を、詩に結び付けてしまう態度そのものが、人によっては「きれいごと」に映るかもしれない。けれども、本当は誰だって、激しい怒りの瞬間には言葉などまるでないのではないか。目を凝らせば、真空パックのような奇妙な空間が浮かび、それが、ぱりんと、鋭く割れる音が響くばかりである。それに対し、愚痴と呼ばれるような小さな怒りには、無数に言葉が湧いている。吐き出しても、吐き出しても止まらない、饒舌の果てで、ようやく言葉は消えていく。
 そんなことを考えると、怒りとは何だろう、と思う。自分にとって印象深い比喩のひとつに「怒りのように美しい」というものがあるが、この美しさのなかへ没入することによって、私はほんの僅かでも、心の毛羽立ちが均されるのを感じる。だから、その限りにおいて、詩は、単なる〝きれいごと〟では全然ないのだ。

(初出/信濃毎日新聞朝刊2009.1.24付・改訂版)

2010.6.6掲載

第12回 リレーエッセー

詩と詩人についてのメモ(2) 光冨いくや


尾形亀之助。

顔がない

なでてみたときはたしかに無かつた。といふやうなことが不意にありそうな気がする。
夜、部屋を出るときなど電燈をパチンと消したときに、瞬間自分に顔の無くなつてゐる感じをうける。
この頃私は昼さうした自分の顔が無くなる予感をしばしばうける。いゝことではないと思つてゐながらそんなとき私は息をころしてそれを待つている。」(銅鑼8号)

 「顔」と称しているが、これは「個性」というよりも、存在のからっぽさを感じさせる作品にさえ思う。わたし自身鏡や写真でしか自分の顔を見たことがないが、案外、ときおり、顔というものは、消え去っていることもあるのではないか、とも想像すると、なんとも怖いものでもある。そして、亀之助はそれを「待っている」のである。

 尾形亀之助は明治三十三年(1900年)に宮城県に生まれた。資産家の息子で、幼いころから喘息の持病があった。学校を休みがちで、のちに東北学院を落第、退学した。学生時代に、啄木やトルストイ、ドストエフスキーなどロシア文学にも触れ、同人雑誌に詩や短歌や絵を発表していた。二十二歳のころ、結婚、芸術活動に参加、本格的に絵を描くようになった。詩集『色ガラスの街』、『雨になる朝』、『障子のある家』。冒頭に引用した「顔がない」という作品は、未刊詩集として『現代詩文庫1005 尾形亀之助詩集』(思潮社)から全文を抜粋した。
 エッセイ・散文的な詩を書き、虚無感というか、脱力感漂う作風の持ち主。また短い詩なども見られる。
 「詩人の骨」などが比較的知られているかもしれない。それは、「幾度考へこんでみても、自分が三十一になるといふことは困つたことにこれといつて私には意味がなさそうなことだ。」という冒頭のエッセイ的散文詩である。この作品の後半には、詩人の名声を夢想する、可愛げがあるところを垣間見せるが、なかにはそれに反発するひともいるかもしれない。詩人の骨など大したものではない、と。幾万年後に学者に骨を発掘されてこういわれるという。「「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。」

 餓死自殺を口にし、第三詩集の『障子のある家』を出版後は、家財道具を売り払ったり、故意に詩友から遠ざかったりした。晩年は妻に三度目の家出をされ、お金に困り、持ち家を売却、最後はひっそりとだれにも見取られずに亡くなったという。「喘息と長年の無頼生活のための全身衰弱」とされている。昭和十九年(1942年)十二月、43歳のことであった。
 わたしはなんとなくだが、亀之助はわかる気がする。というより、わたしとある部分において同じ臭いがしそうではある。ただもうすこしわたしなら常識的な線に落地させるかとは思う。そういう意味において、親近感を抱く詩人であった。

*参考文献:『現代詩文庫1005 尾形亀之助詩集』(思潮社)

2010.5.22掲載

第12回 リレーエッセー

リレーエッセイ 荒川純子

 3月から4月の半ばまでの慌しい新学期、世の中のお母さんはみんなきっと忙しい。私のようにPTA活動などに顔をだせば忙しさはさらに倍増。ぎゅっと詩人の顔を奥の方にしまい込みお母さんパワーフル回転で過ごす毎日。
 私は詩が書けないときは、詩を読むようにしている。そこでこの忙しい時期も、何か詩集を選ぼうと、例え読む時間がなくても何か探しておこうと部屋の片隅に積み上げた詩集の山を崩していった。あららっ、たまたま手にとった本がブレイクの洋書だった。少し前、、この44プロジェクトで伊藤さんのリレーエッセイの中にブレイクが登場した。その時は驚いた。この数年間、私のまわりで名前が挙がる外国の詩人はランボーやエリオット、ギンズバーグやバロウズだった。ブレイクを読む人み~つけた!と思った。嬉しい、これは偶然か、と感激していた。そしてその数週間前に、旦那の影響で10年以上愛読する「少年サンデー」の連載マンガ「ARAGO」にもブレイクの名前が出てきたことを思い出した。ふたつ続いた偶然にこれも何かの縁、と不思議なものを感じた。きっと今はブレイクを読め、ということなんだ、と私は「Song of Innocence and Experience」をめくり、同時に昔自分でいくつか詩を訳したノートをみつけた。
 私がブレイクに夢中だったのは、20年以上も前になる。だから本もノートも昔のものだ。当然独身で子供なんてむしろ敬遠していた頃。その時期は「The SICK ROSE」のような詩を好んでいた。でも今、読んで気になるのは子供の詩や煙突掃除の少年、羊飼いの詩だった。読むとつらくなった。私は以前から「詩も詩集も読むたび印象が変わる、自分が歳を経るとともに感じ方が変化し読み方が変わりそこが魅力だ」と話していた。でもそれは女性的な面からの変化が多かった。でも今は女性を意識する変化よりも「子供や弱者」に対する母親を意識する気持ちの変化の方が強く大きくなっていることに気がついた。私は他のブレイクの詩を読んだ。以前はブレイクの彩色版画の美しさや独特な詩の世界、英詩への憧れから好んでいたが、今感じるブレイク作品は私の心をひりひりさせるものだった。新しく今の自分でブレイクを読みたい、そう思って以来ずっと机の上に開かれずに今も本はここにある。ようやく5月、やっと詩を読む時間をもてそうだ。

2010.5.15掲載

第11回 リレーエッセー

丸の内界隈 長谷川 忍


 勤め先の事務所が、一時期水道橋にあった。もう30年近く前のことだ。その頃、午後になると丸の内にある銀行に通うのが、私の日課になっていた。
 まだ半分くらい学生気分を引きずっていた身にとって、丸の内は、どこか、のっぺりした大人を見上げるような違和感があった。一方で、オフィス街を背伸びして歩いている自分に、妙なおかしさを感じてもいた。売上手数料の入金や、振り込みや、この銀行通いが1日の仕事の中のアクセントになっていたように思う。
 詩を書くようになって数年が経っていた。が、自分はいったいどの詩人に傾向したらいいものやら、さっぱり図りかねていた。そんな頃職場に近い書店で偶然手にしたのが、石垣りんの『略歴』という詩集だ。
 作品から、ほのかに丸の内の匂いが漂ってきた。それは違和感というより、端正な大人っぽさとでもいったらいいのか。その匂いに惹かれるように、詩集を購入してしまった。後を追うように他の詩集も探した。歳は親子以上に離れていたものの、丸の内にある銀行勤務のかたわら単身で詩を書いていたこと、そして、変な話だが、学歴との無縁さというスタイルに、どこか共感を覚えた。何より、作品から発するシンプルな自立姿勢に大人としての端正さを見たのかもしれない。
 水道橋に通っていたのは、2年とちょっと。その後事務所の移転に伴い私の日課もそれきりになってしまった。ある月刊詩誌に書きためた詩作品を投稿するようになったのも、同じ頃だ。いろんな意味で、成人への転換期であったような気がする。
 数年前、彼女の4冊の既刊詩集が童話屋から復刊された(ちなみに『略歴』は第3詩集)。懐かしかった。石垣さんというと一般的には生活詩のイメージが強いが、私には、背伸びをして丸の内界隈を歩いていた時の光景が、今でも諸作品から浮かび上がってくる。
 たとえば、こんな詩を、当時はどんなふうに読んでいたのだろう。
「つとめの帰り/喫茶店で一杯のコーヒーを飲み終えると/その足でごく自然にゆく/とある新築駅の/比較的清潔な手洗所/持ち物のすべてを棚に上げ/私はいのちのあたたかさをむき出しにする」(「公共」)

2010.5.8掲載

第10回 リレーエッセー

歌うように詩を口ずさむ(2)  伊藤浩子


 車は私たちの住むマンションにようやく辿り着いた。千駄ヶ谷と四谷の真ん中あたりにある不便なマンションだったが、日当たりがよく、私は割りに気に入っていた。
 早くシャワーを浴びて休みたい、そう思って手荷物を持ち助手席のドアーを閉めても、男は車から降りなかった。「実家に行ってさ、話してくるよ。やっぱり大事なことだからさ」、そして再びエンジンをかける。男の横顔に迷いはなかった。「ちょっと待って・・・」と私が言う間もなく、猛スピードで行ってしまった。
 仕方なくエレベーターで最上階に上がり、鍵を開けて605号室に入る。狭い玄関のいつものホルダーに鍵を掛け、オートロックを確かめてから、細長い廊下を渡ってリビングに入る。リビングは妙によそよそしい。大喧嘩した友人に「あんた今頃何しに来たのさ」と言われているような冷たさだ。それでも飼い犬はうれしくて私の膝に飛びついてくる。飼い犬の鼻筋をなでながら(飼い犬に名前はなかった)、私は男が口ずさんだ詩を繰り返した。

 影を踏んで春を惜しむ/森の/ここは裂傷

 男はもうここには戻ってこないかもしれないな、男の横顔を脳裏に浮かべながら私は思った。ちらりともこっちを振り向かなかった。男は何かを拒絶するときに、よくああいう表情をする。眉間に皺を寄せて。口元をやや歪めて。だからそのとき男が拒絶していたのは、私だったのだ。でも、一体、私が何をしたっていうの?
 ダイニングキッチンのテーブルに座って、長いあいだ飼い犬の鼻筋をなでていた。犬はその間ずっと尻尾を振り続けていた。それからふと自分が空腹だということに気づいて、キッチンの冷蔵庫を開けてみた。でも冷蔵庫の中はまったくの空っぽだった。ドレッシングさえない。脱臭剤もなくなりかけている。
 飼い犬は私の後ろで静かに座っている。そういえば飼い犬にも朝からずっと餌をやっていなかった。私はシンクタンクの下の戸棚を開けた。彼のためのドライフードもやはり一粒もなかった。
 やれやれ。
 一体どうしたって言うのよ?
 部屋の中は何もかもがなくなっているか、なくなりかけていた。ティッシュ・ペーパー、トイレット・ペーパー、シャンプー、リンス、CD、コレクション本、薬、食器や寝具、私の下着やストッキングまで。部屋の電灯もわずかに暗くなっていて(何もしないのに電灯が暗くなるなんて聞いたことない!)、足元にゆれる影も薄く、私自身の存在もなくなりかけているようだった。いや、実際問題として、私はもうここからなくなり始めているのだろう。そう考えた方が自然だし、ずっとすっきりしている。
 私はもう一度、男の詩を繰り返した。

 白いインクで罪を眠らせる/青いインクで

 それから何だっけ?
 でも、罪って一体なに?
 私は続きを思い出せないまま、男の帰りを真夜中過ぎまで待った。
そのうちに雨が降り始めた。とても細かい雨だった。私の目には、降る雨までもがなくなりかけているようだった。

2010.5.1掲載

第9回 リレーエッセー

エデンホテルへの道 野村喜和夫


 前回執筆者の、森川さんによる「自由詩」の定義、「定まった形がなく、つねに流動していること」という定義、その通りだと思います。私たちは生そのもののレベルでもそれを願望していて、私が旅にあこがれ、じっさいに旅に出ることが多いのも、ひっきょう、定型的な生活をかりそめ離れて、「つねに流動」していたいから、すなわち、自由詩的状態をつねに身体のそばに、あるいはそれこそ身体そのものとして感じていたいからなのでしょう。
 さてそこで、この春はイスラエルに行ってきました。ガリレヤ湖に近いマグハル村というところへ、ニサン国際詩祭というのに招かれて。イスラエルというとユダヤ人の国というイメージが強いですが、じっさいはアラブ人も少数派ですが住んでいて、というか、もともと彼らが住んでいたところへ、英米の力を背景にユダヤ人たちが大量に移入してできた国なわけです。したがって国情は複雑、公用語もヘブライ語とアラビア語とふたつあり、たとえば私が自作詩を日本語で朗読すると、スクリーンにはそのヘブライ語訳とアラビア語訳とが同時に映し出されます。
 この詩祭もじつはアラブ系の人たちが主催していて、もちろんユダヤ系の詩人たちもたくさん参加していましたが、私たち外国の詩人たちは基本的にアラブ式の歓待を受けました。それはたとえば公の席ではお酒がふるまわれないとか、かなりきびしい面もありましたけど、郷に従ってしまうと、たったの一週間でしたが、アラブの人たちの心の広さ温かさをしみじみと味わったような気がします。
 そして旅のハイライト、それはしかし、詩祭そのものというより、これも主催者側が用意してくれたのですが、投宿先のエデンホテルであったかもしれません。さすがは聖書のふるさとにふさわしい名前──と思っていたら、設備その他において完全に名前負けしていました。たとえば深夜のバーでは水だけが供され、エレベーターはときどき止まってしまう。部屋に入ればドアノブは壊れかけ、収納棚の引き戸は外され、絵は斜めに掛かり、トイレにはトイレットペーパーがない。これでエデンだというのですから、なんとも皮肉がきいているではありませんか。地の底に沈む込むようなベッドに横たわりながら、私が詩を──その名もずばり「エデンホテル」というタイトルの詩を書き始めたのは、いうまでもありません。

2010.4.22掲載

第8回 リレーエッセー

つながる 森川雅美


 詩は近くの親しい人にも、遠い誰かにもつながる。それはどのような言葉の動きが働いているのか。
「詩はもっともプリミティブなものである」
 岡井隆さんの出版記念会で、瀬尾育生さんがいった言葉が忘れらない。
 江戸東京博物館で開催されている、「チンギスハーンとモンゴルの至宝展」を見に行った時も、この言葉を思い出した。
 展覧会の最初には、定住ではなく移動する民である、騎馬民族の匈奴や突厥の美術品が展示されていた。中国近辺だけでなく、ロシアやヨーロッパの騎馬民族にも共通するが、境界を失って溶け合ったような、独自の動物意匠が特長だ。その後に起こった契丹が定住し、遼を建国し中国化すると、このような意匠は中国の文化の様式に定着していく。確かに、遼の美術品は洗練されているが、匈奴や突厥のダイナミズムにはとうてい及ばない。
 そのような美術の白眉ともいえる、匈奴の王冠を見ていて、瀬尾さんの言葉を思い出した。これは「自由詩」だと思ったのだ。一定の文化圏に属するような、定まった形がなく常に流動している。「かたち以前のかたち」というと、自己撞着になってしまうかもしれないが、そうとでもいいたくなるような、流れのような造形だ。「プリミティブ」であるとは、こういうことかと思った。
 「自由詩」とはこのような、「かたち以前のかたち」の言葉の動きと、いえないだろうか。優れた「自由詩」の言葉は、ひとつの意味から、別の意味に流れていく側面がある。この言葉の「流動性」こそが、「定型」にはない特徴といえる。もちろん、どちらが優れているといいたいわけではない。洗練された美術にはプリミティブな美術にはない、美しさや魅力がある。そこは好みの問題だろう。さらに、言葉に関していうなら、定型であっても、その中での接続や乖離で、流動性は創られるに違いない。
 それでも、境界の薄れた溶け合ったものの造形に、人たちは立ち止まり見ほれる。「かたち以前のかたち」とは、意識の根底にある記憶。そして、「自由詩」が親しいものと共に、より遠くの何かとつながるのは、このような記憶を呼び覚ます、言葉の動きがあると考えるのは、強引ではないはずだ。

2010.3.31掲載

第7回 リレーエッセー

詩の読本 和合亮一


 花巻。高村光太郎が晩年に過ごした山荘へと、出掛けた。昨年の夏のことである。想像以上に粗末な山小屋や、資料館に残されている遺品、彫刻作品などを拝見した。「戦争詩」の責任を問われて、自らを此の地に置いた詩人の決意を想った。
「とにかく穏やかな方でした」。幼い時分に、光太郎からいろいろと教わっていたという浅沼隆さんと話しているうちに、私も自然と「光太郎」ではなく「光太郎さん」と呼んでいた。しだいに身近に人間を感じてきた。
  「いくらまはされても針は天極をさす」と記された詩書を眺めた。そうしたら、泣けてしまったのである。名人の書跡を見てほれぼれとしたことはあったものの、涙が流れたのは初めてである。
 気恥ずかしいので顔を横に向けていた。花巻駅へと向かう帰りの道すがらに浅沼さんは「詩の好きな方はうらやましいですね。一瞬のうちに作者の心と、つながることができて…」と、しみじみとおっしゃって下さった。
 詩の魅力は、今にも昔にも明日の時にも、はるかな異国の誰かにも、大切な家族の心にも「つながる」ことのできるところにある。そう願うと、詩は隣にやってくるのだ。花巻の山林はいま、雪深いだろう。

福島民報新聞
一月十日付け文化欄連載より

2010.3.28掲載

第6回 リレーエッセー 

主語になりたくない 杉本真維子


客という漢字のなかに帽子をかぶった紳士がいる、と唱えていると、そこからその人が出てきて、バーのようなところへ連れていかれた、というあやしい話を、聞いてくれるヒトがいない、ということ。春に上着を忘れて会社へ行って、帰り道で突風にふかれ、ビルのはざまから、電話をかけて、寒い、という一言を、聞いてくれるヒトがいない、ということ。だから、書くのだろうか。それは、ちがうような気がする。話したい気持と、書きたい気持ちは、同じではないので、その透明な分岐点で、書くことのほうへむかう人は、はじめから、聞いてくれるヒトを、そんなに求めていないのかもしれない。
ということを、お風呂上りのように、さっぱりした顔で、言ってみたいものだ。
ここで私は原稿を送信しようとしていた。文字数を確認すると、足りていないどころか、エッセイになっているかどうかも疑わしい。あせる。でも、ここで急に「私」という主語が出てきている。そう思ったら、長い冬眠の途中で、白日の下にひっぱりだされたような、戸惑いと気恥ずかしさを感じた。もう土にひっこみたい。主語になりたくない。その気持と、詩を書きたい気持は、なぜか似ていた。

2010.3.18掲載

第5回 リレーエッセー 

詩と詩人についてのメモ(1) 光冨いくや


 大手拓次は明治二十年に生まれ、昭和九年に亡くなった詩人であるが、このような作品がある。


夜の脣

 こひびとよ、
 おまへの 夜(よる)のくちびるを化粧しないでください、
 その やはらかいぬれたくちびるに なんにもつけないでください、
 その あまいくちびるで なんにも言はないでください、
 ものしづかに とぢてゐてください。
 こひびとよ、
 はるかな 夜(よる)のこひびとよ、
 おまえへのくちびるをつぼみのやうに
 ひらかうとして ひらかないでゐてください、
 あなたを思ふ わたしのさびしさのために。

現代詩文庫「大手拓次詩集」(思潮社)より「夜の脣」を全文抜粋

 ひらがなの文体は、女性のくちびるのようにやわらかで、わずか十行ほどの詩の世界は、しんとした夜のつややかさとしずけさに包まれている。あるのは沈黙と、わずかな身じろぎによる衣のすれあう音さえ耳元でささやく声に聞こえそうな、官能性である。

 説によると、生前一冊の詩集も出版しなかったという。詩集『藍色の蟇』はどうやら死後に出版されたとのこと。ほかにも詩画集などもあった。
 作風は口語体で幻想性、エロティシズム性、ロマン性を特長とし、作者自身そうであったようにプラトニックな夢幻性があった。フランス象徴主義の影響もあった。
 また、人見知りでもあり、詩の仲間でもあった北原白秋(同人誌の主宰)と三、四度、萩原朔太郎とも一度あったきりとも伝えられている。
 「脣」にはモデルがいるともいわれている。会社の後輩で、名女優であったひととも。片思いだったらしいが。
 拓次の生涯は孤独であった。二十九歳で会社勤めをはじめ、夜に詩作をし、多くの詩を書くも、独身のままで、ひとり看取られることもなく四十七歳で亡くなったという。

 わたしはこう思う。詩人の名声や名誉は死後で十分である。生きている間は、むしろ孤独で、理解されること少なく、報われること小さく、それでも詩を書きたいから詩を書いているというその純粋さが、詩人らしい。そういう意味でも拓次の生き方や作品は、美しくもある。

参考資料:『現代詩文庫 大手拓次詩集』(思潮社)、正津勉著『詩人の愛』(河出書房新社)
2010.3.8掲載

第4回 リレーエッセー

リレーエッセイ 荒川純子


 「ただいまーっ」と小学校2年生の息子が帰ってきた。その日学校であったことなどめったに話さない息子が「今日ね、国語の時間にお母さんのやってる『し』をやったよ」と自分から話しだした。まだ幼稚園の頃、私の朗読の練習を聞かせるといつも笑っていたけれど、どうやら私が詩を書いていることをまだ彼は覚えていたようだ。
詩ってこの時期に習うの?と私はランドセルを勝手に開けて国語の教科書を取り出した。
 目次に「見たことかんじたこと」・・・これだ!でもたったの2ページ!?ものをじっとみつめて感じたことを短い言葉にしよう、と見出しがある。不思議なことに“これが『し』だ”なんてどこにも書いてない。見開きに数編の詩が言葉の断片のように載っていた。こんなものなの?とちょっと期待が外れて、パラパラと後ろのページをめくると谷川俊太郎さんの「いるか」の詩があった。ああ良かった、やっぱり教科書には谷川さんだわ。

  いるかいるか/いないかいるか/いないいないいるか/いつならいるか/よるならいるか/またきてみるか             谷川俊太郎「いるか」より引用

 詩を書く状況は人によって違うだろう。私は勢いよく言葉を吐き出したり、いい言葉がみつかってたまったそれらを組み合わせたり、上手く言葉が探せない、あてはまらないと悩んだりといろいろだった。でも詩を書くって意外とシンプルなものだったのね。ものを見て感じて、またもっと見て深く感じての繰り返し。もっと素直に考えてよかったのかも。小学校の教科書で改めて気づくなんてちょっとおかしい。
 ランドセルの底にくしゃっと折れた紙があった。クラスの中で上手に書けた短い言葉(詩)を集めてプリントで配られたようだ。広げてみたがその12編の作品の中に息子の名前はなかった。まあ、そんなものでしょう。そのうち自分の子供の詩が読める時があるのだろうか、期待しないでランドセルのフタをかちっと閉めた。

2010.3.1掲載

第3回 リレーエッセー

連詩ごっこ・長谷川 忍


 親しい詩人仲間で、小さな同人詩誌をやっていた頃のことだ。同人会の後の二次会で、よく連詩をやった。書き方についての幾つかのルールがあるのは一応知っていたが、まあお遊びだから、自分たちで勝手にルールを作ってしまおうよ、ということになった。およそこんな具合である。
①各連ごとにあらかじめ決めておいた共通の言葉(名詞、形容詞、動詞など)を入れ込む。たとえば一連目では「魔女」を、二連目では「そこはかとない」を、三連目では「呟いた」を、必ず連のどこかに入れ込んで書く。
②各連の行数は統一する(基本的に五行)。
③前の連の内容をきちっと把握、咀嚼し、繋げていくこと。最終的に仕上がった作品はきちんとしたひとつのストーリー性を持っていなければいけない(起・承・転①・転②・結、あたりが望ましい)。
 まず、五人それぞれが同時に原稿用紙に一連目を書き、書き上げたら書名をして右隣の同人に回す。同時に左隣から一連目を書いた同人の原稿用紙が回ってくる。その原稿用紙に今度は二連目を書き署名をしてまた右隣の同人に回す。同時に左隣から二連目まで書いた原稿用紙が回ってくる。そうやって、三連、四連、五連、と書き上げていく。全てを回し終えた時点で、五つの作品が同時に完成するというわけである。
 しかし、酒を飲みながらの余興であるがゆえに、酔っ払ってくるうちだんだん雲行きが怪しくなってくる。左隣から原稿用紙が回ってくる。さあ三連目を書こうと原稿に目を通す。とたんに目がくらむ。二連目にして見事に「完結」しているのである。左隣を睨むと、すでに酩酊状態の同人K嬢が不敵な笑みを浮かべている。
「繋げられるものなら繋げてみなさいヨ」
 顔にそう書いてある。
 こいつ、ブン殴ってやろうか! という思いをかろうじて抑えながら、私は黙々とペンを走らせる。かくして、起・結・承・転・結②。あげくは、結・承・結②・転・結③。もう何が何だか収集がつかない。…かくして、夜は更けていくのであります。

2010.2.22掲載

第2回 リレーエッセー

歌うように詩を口ずさむ・伊藤浩子


 そのときちょうど車は六ツ又交叉点に差し掛かっていて、前に停まっていた長距離トラックのウィンカーの、ひび割れた赤い光がゆっくり点滅するのを二人でぼんやり見ていた。
 後ろのRX-8が腹立たしげにクラクションを鳴らす。それと同時にはっとわれにかえり、男はあくびをしながらアクセルを踏む。
無断でCDを交換し早送りする。オーディオのボリュームを上げる。ライヴの帰り道、すでに23時をまわっていて、そう、夢の中の災厄よろしく、ものごとは突然頭上に降りかかる。

赤のインクで秋を追い/白いインクで罪を眠らせる/青のインクで夏を待ち/影を踏んで春を惜しむ/森の/ここは裂傷

「え? なに?」
「なにって?」
「インクがどうしたの?」
「ただの詩だよ、その曲を聴いているうちに思い浮かんだんだ。なんていうミュージシャンのなんていう曲?」
「スライの『Color Me True』。だってあなたのCDでしょ?」
「違うと思う。よく思い出せないけど」
車は熊野神社付近の交叉点まで来ていた。
「思い出せないってどういうことよ?」、男はその質問には答えない。
「この前観た映画では大柄な男のネイティヴ・アメリカンがウィリアム・ブレイクの詩を大声で朗読していた、君の好きなジョニー何とかって言う俳優が出てる映画だよ」
「ジョニー・デップ」
「そうそう、ジョニーの役どころは何一つ覚えてないけれど、そのインディアンの詩だけは強烈に覚えている。すごく羨ましかった」
「何が?」
「そんなふうに詩を読めることが、だよ。うらやましくない?」
 首を横に大きく振って見せる。それを見て男が意を決したように言う。
「俺もこれから詩を書いてみようと思うんだ、
君には悪いけれど」

*途中の詩は、詩人のT.Hさんの文章が元になっています

2010.2.12掲載

第1回 リレーエッセー

さあ詩を書こう・野村喜和夫


 さあ詩を書こう、というタイトルで、初心者向けの詩の創作講座をはじめました。さいたま文学館というところで、全5回。でも初心てなんだろう。そこで私は、世界が現状のようにあることへの怒り、それゆえ世界を詩的に捉え直したいという欲望、それが私に詩を書かせる──とまず大きく出て、尊大にも自作の「デジャヴュ街道」を例に出しました。「デジャヴュ、/さながらてのひらのうえを走るように、/紙葉一枚ほどのくすんだ空の奥の、その右上あたりから、/道がひとすじ、濃くうすくあらわれ、/ちらめく蛇体のようにうねりながら、/私たちの眼のはるか下へ、たとえば立ったまま眠る/祖の腰のあたりへと伸びて──//オルガスムス屋が行く、神経の蟻が行く、//と、その道をよぎるべつの道たちが、/デジャヴュ、/長短さまざまにちぎれた糸屑のさまをなして浮かび上がり、/まれには、少女の脛のうえの/かすれた傷痕のような風情をみせながら、/どれも一様に陽に照らされて、/右へ左へと揺れひかるので──//神経の蟻が行く、/錆と苔が行く、(以下略)」

 ここから何か詩作一般へのヒントが引き出せないか。まず、そもそも私はたんに空を眺めていたわけですから、①〈私〉のいる場所から、〈私〉のまわりのありふれた事物から出発すること(それを変容させるために)。

 つぎに、通常の言語システム(世界の現状はそれに覆われています)の運用では、たとえば「錆」や「苔」は「生じる」ものであって、「行く」ことはできないのに、それをあえて狂わすように、「錆と苔が行く」としたわけですから、②言語システムの根本的なメカニズムを知り、それとたたかうこと(詩は言語による言語の批判である)。

 最後に、要するに私は空に街道を幻視したわけですから、③みえないものをみるように、語り得ないものを語るようにすること(ポエジーの核心)。

 とまあ、詩の初心者を前に、いつのまにか私は、いまだ十分には到達できていないわが詩作の根本目標を語ってしまっていたようです。というか、詩には初心も熟練もないんですね。

2010.2.2掲載






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